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後藤県議 勇退を惜しむ
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後藤 源 事務所
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県議在職40年表彰を受ける
 後進の指導に力を注ぐ決意
天皇陛下の退位と共に四十年に幕を降ろす
 昭和54年激しい選挙戦で初陣を飾ってから丁度40年、毎日毎日が駆け足のような日々の連続でした。もう一期は務められる、選挙戦も戦える、と思っていたが、自分が4年続けるのと後輩を育てる必要を比較考量した時、40年を節目に後進の指導に力を注ぐ決意に至った。
 源友市議団の一人で現在自民党米沢支部幹事長の相田光照氏を後継者として推薦した。地方政治家として大成してくれることを期待している。
 天皇陛下は四月三十日に退位される。一日早い四月二十九日任期満了で県議40年の幕を降ろす。平成の次の新元号は間もなく発表されるであろうが、相田光照氏には新しい時代と共に若武者の如く颯爽と登場してほしい。(後藤 源)
全国都道府県議会議長会の席上、勤続40年の表彰を受ける
全国都道府県議会議長会の席上、勤続40年の表彰を受ける ▲全国都道府県議会議長会の席上、
勤続40年の表彰を受ける
(平成30年11月1日大阪市)
永年勤続40年の特別表彰を受ける
永年勤続40年の特別表彰を受ける ▲永年勤続40年の特別表彰を受ける
(平成31年2月19日山形県議会本会議場)
後藤県議勇退を惜しむ
 30年以上のお付き合い
 東北中央道と碑の移転に尽力
京都府知事 西脇隆俊
 私が山形県に赴任したのは、今から約32年前の昭和62年4月でした。肩書きは、企画調整部総合交通課長。山形新幹線の実現、フラワー長井線の実現など様々な課題を抱えていましたが、大きな課題の一つが東北中央自動車道と日本海沿岸東北自動車道の両路線を四全総、高規格幹線道路網計画(一万四千q)へ盛り込むことでした。当時、後藤源先生は、当選三回の若手の論客で、とりわけ東北中央自動車道の整備について熱心に取り組んでおられました。その時から30年以上、途切れることなくお付き合いをいただいたことは、誠に感慨深いものがございます。
 私は4年間、山形県庁でお世話になりましたが、在職中の昭和62年6月、閣議決定された四全総に東北中央自動車道が盛り込まれ、さらに一万一千五百二十qの国土開発幹線自動車道にも位置づけられました。
 平成3年に建設省に戻ってからも東北中央自動車道の動向には関心を持っておりました。後藤先生の東北中央自動車道にかける思いは大変熱く、霞ヶ関に来られる時には、度々報告をいただいておりましたし、私が幹部になってからは、何度も要望をお受けしました。この先生の思いが通じ、ついに平成29年11月、米沢市と福島市を結ぶ栗子トンネルの開通が実現しましたが、先生が途中から本線の供用以上に熱心に取り組んでおられたのが、栗子隧道碑記の移転建立でした。
 先生は、平成14年から毎年7月に旧栗子隧道まで万世大路を歩く会を催しておられたそうで、初代山形県令の三島通庸が建てた大きな石碑があることをお知りになりました。この石碑は、栗子隧道の開通を記念したもので、工事の内容と竣工までの状況が漢文で記してありました。国土交通省の福島河川国道事務所の栗子維持出張所に建っていましたが、元々は開通の翌年に隧道の米沢側に建てられたものでした。
 この時点から、先生の精力的な取組みが始まりました。所有権をどうするのか、費用を誰が負担するのか、どこに移すのか、何故移すのか等々、解決しなければいけない問題は、それこそ山積していたと思います。全てをクリアして、明治改元百五十年という節目の年、道の駅米沢のオープンに合わせて、「栗子隧道碑記」移転建立の除幕式が挙行されました。私もこの間、何度も先生からお話を伺いました。移転建立が実現したのは、先生の用意周到な準備、卓越したリーダーシップと実行力、粘り強い努力によるものと、心から敬意を表する次第です。
 今回で県議会議員を引退されると伺っておりますが、これまでの活動に「本当にご苦労様でした」と申し上げるとともに、これからも健康に留意され、引き続き、米沢市、山形県の振興発展にご活躍されることを心から祈念いたします。
京都府知事に就任された西脇さんと
京都府知事に就任された西脇さんと
(平成30年8月1日 京都府知事応接室)
道の駅米沢に建立された<br>栗子隧道碑記
道の駅米沢に建立された
栗子隧道碑記
 後藤源先生のご勇退に寄せて
前米沢女子短期大学学長  遠藤惠子
 昨年12月の源先生のご勇退のニュースは、私にとってまさに青天の霹靂でした。
 源先生のご業績はあまりにも膨大ですが、私が米短在任中に源先生にお世話になった様々な事案からも、源先生の政治姿勢を窺うことができます。
 先ず第一に、源先生は現場第一主義でした。私が米短に赴任して間もない頃、源先生は早速私と親しく懇談する機会を作って下さり、「米短の今の課題は何か、米短の将来像をどう考えているか」とお尋ねになったのです。突然のことで戸惑いましたが、率直に私の思うところをお話ししました。それは、「短大志願者は全国的にみると減少著しいこと、米短は今のところ順調ではあるが、今のうちに四大化に向けて動き出さなければならないこと、特に健康栄誉学科は、管理栄養士資格の取れる四大化にする必要があること」などでした。
 驚くことに源先生はその数日後には米短の各種資料の提出を求めて来られたのです。さらに、源先生は、間もなく他県の短大等をご自分で視察にまで行かれたのです。そうした綿密な調査・準備を整え、「米短の四大化、特に健康栄養学科の四大化は全面的に支援するから、ともに頑張ろう」と励ましてくださいました。あの時は本当にユメかと思うほどビックリでした。何しろ、肝心の県当局は四大化など論外という姿勢でしたから。
 しかし、源先生は県議会で、米短四大化の課題を取り上げ、最終的にはついに健康栄養学科の四大化を実現したのです。それが現在の米沢栄養大学です。米沢栄養大学の真の設立者は後藤源先生です。その当時、私は冗談で「新大学名は、米沢栄養大学ではなく、米沢源大学がいいのでは」と言っていましたが、半分は本気でした。
 私の米短での任期中8年間での最高の宝は、源先生との出会いです。それまで、何となく政治家は別世界の人と、敬遠していましたが、源先生にお会いして、この世の中にはこんな政治家もいるのだ、と認識を新たにしたものです。源先生は私の話を親身にじっくり聞いてくださり、米短だけでなく短大というものが抱える課題を鋭く洞察し、さらにそれらをご自分自身で調査研究・実地視察までして、山形県の政治課題として議会に挙げたのです。
 この間、源先生は何度も何度も米短に足を運んでくださいました。その折々、私ども米短は、細々したことまで源先生にお願いしたものです。例えば栄養大学新校舎建設に当って、米短の旧校舎も改築したい等々の要望も即実現していただきました。
 源先生は、その当時、米沢栄養大学設立だけでなく、東北中央自動車道のインターや道の駅の開設などにも同時進行で進めておられたのです。一つ一つの案件について、愚直なまでに丁寧綿密に取り組むのですから、どんなにお忙しく大変だったことでしょう。しかしそんな素振りは少しも見せず、いつも豪放磊落で愉快な先生でした。
 源先生は、いつも30年先、50年先を見越して活動されていました。政治家とはこうあるべき、というお手本のような方が源先生です。
 源先生、長い間、ありがとうございました!
米沢女子短大の四年制化について話し合う遠藤学長と後藤県議(米沢女子短大学長室)
▲米沢女子短大の四年制化について話し合う遠藤学長と後藤県議
(米沢女子短大学長室)
 「源友」63号で終了
  県議会報告「源友」がこの度の63号で終了します。県議会での活動を支持者ばかりでなく、全ての市民に知って頂くべく発行し、新聞折込で配布してきました。一期目から発行し、今回で63号となります。少しでも県議会での活動と私の考えが「源友」を通して知って頂いたとすれば望外の喜びです。
 題字の「源友」の字は東三丁目の故伊藤正先生の筆によるものです。独特の味のある題字はわざと左手で書いてみた一枚だと後から聞きました。そして63号まで続けられたのは、裏で編集、発行を手伝って下さった方々が居られたからです。げんこつ(・・・・)の欄では毎回百人一首をもじった世相を風刺した句は、読む人を唸らせ、次回の発行を待っている人のいることも知りました。他の陣営の人から「源友」について敵ながらあっぱれという言葉が発せられたことも聴きました。編集発行にご貢献頂いた方々の名前を最終号で明らかにし、お礼を申し上げたいと思います。
 第1号からの小島弥六様、途中からの永井泰廣様、今は亡き、小山内鴻様、小野榮様。本当に有難うございました。(完)
後藤源

Last Update is 2019.3.22



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